疲れましたァ、木喰展
最近は、健康食品として五穀米とか十六穀米といった商品が売り出されていて、健康志向のご家庭には評判が良いという話を聞きます。
昔、仏教の古義真言宗では出家した僧は『木食戒(もくじきかい)』という、守るべき規律があったそうで、『木食戒』とは五穀(米、麦、粟、稗、黍)、あるいは十穀(五穀、トウモロコシ、蕎麦、小豆、黒豆)を絶って、山菜や、木の実しか食べてはならないという戒律だそうです。穀類を食べずに、なおかつ修行するということで、果たして身体機能が保てるのだろうか、などと飽食の現代に生きる煩悩の徒は考えてしまいます。一心を究めようとするときの人間の身体能力は大変なものだと思います。
こんな厳しい戒律を守り、日本全国を廻国修行しながら、およそ千体以上の仏像を彫り続けた木喰上人の仏像を観に、横浜の美術館に出かけました。『生誕290年・木喰展~庶民の信仰・微笑仏~』(~7月24日、横浜そごう美術館)という展覧会です。
会場には仏像およそ130点と、30点以上の資料が展示されていました。展覧会名にある微笑仏は、みしょうぶつ、と読むのだそうで、仏像の中に口元に笑みを浮かべたものが多く、伝統的な仏像彫刻とは異なった、荒削りで、素朴な作風が庶民の信仰を集めたということが分かります。
木喰上人の生涯は、会場内の年表パネルなどでみると、享保3年(1718年)、現代の山梨県に生まれ、22歳で相模国(現・神奈川県伊勢原市)で出家、とありました。その後20年以上経た宝暦12年(1762年)に、45歳で師から木食戒を受け、木喰(もくじき)を名乗ったといいます。木喰が廻国修行に旅立つのは、それからなお10年以上後の56歳(安永2年、1773年)の時だったようです。
廻国修行は、北海道の有珠山から鹿児島に至る日本全国にわたるものですが、最初に造仏したのは61歳の頃、蝦夷地であるというのが通説のようです。それ以後30年後の91歳まで廻国を続け、各地で造仏を続けたということです。初期の頃の仏像は、作風も荒削りで、仏像の表情も厳しく、沈んでいるものが多いということですが、その後次第に微笑を浮かべたものが多くなってきているようです。この微笑が木喰より100年ほど前に造仏していた円空とは違うところです。
木喰上人は、91歳(1808年)まで造仏していた、ということが遺品から分かっているそうですが、その後消息を絶ち、遺族の記録では93歳(文化7年、1810年)にこの世を去ったといわれています。しかし確証はないようです。木喰仏は、本人の死後100年以上の間、民間信仰の中にあって、専門的な研究がなされることはありませんでした。民藝運動の推進者だった柳宗悦がこれらの木喰仏の存在を発見し、再評価したのは1924年(大正13年)のことです。
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会場に展示されている130体もの仏像を観て、正直疲れました。その疲れの中には、展示されている仏像に施されている「支えの道具」にもあります。像の後に金属の支柱を立て、その支柱から像の首、肩、もしくは胸部分を抑えるように黒くて太い棒が周っているのです。観ていて仏像を”拘束”している、という印象を受けたのは私だけでしょうか?。この支柱が施されている像では、思わず気持ちが引いてしまいました。
安定性の無い立体作品を展示する場合の固定方法は沢山あり、この会場でも透明な太いテグスを使っているものもありましたが、この黒い拘束支柱は、何ともいただけないものでした。せめて透明なアクリル性の押さえ具でも使って欲しかったと思います。各美術館、博物館などでの立体の固定方法はそれぞれ苦労されているのですが、仏像に対する日本人特有の恭しい気持ちと、展示側の考えの違いが浮き彫りになったような気がしました。人体彫刻や、立体作品などでは考えられない支柱です。もう少しデリカシイを持った展示にして欲しいと思いました。
疲れましたァ~。
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<きょうのおまけ>
花=バラ(Heritage)、イタリアンパセリ、スウィート・バジル。
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「こんにちは、菫(すみれ)です。最近は雨降りの日が多くて、ベランダに出ると自慢のピンクの肉球が濡れちゃうので、あまり遊べないのヨ。」

















































































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